坂の上の雲
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1999/01/10
- メディア: 文庫
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この本を読むのは3度目になる。毎回考えさせられる本だ。今4巻を終えたあたりまで来て、旅順の第三軍のことを考えている。司馬遼太郎はこの本で、旅順要塞攻撃を受け持った乃木希典と参謀の伊地知を痛烈に非難して、彼らの無為無能ぶりを何度も何度もしつこいくらいに記載している。
作者としては、当時神格化されていた乃木大将を精神面からではなく、能力の面から再評価する、というチャレンジの意味があったのだろうし、死を覚悟した突撃を無為に命じられる一兵卒の無念を、自分も第二次大戦に従軍した身として代弁したかったのだと思う。
が、今回読んでみて思うのは、乃木や伊地知は無能で頑固だったから失敗したのだろうか、ということ。現在のビジネスにおいても、日露における旅順が繰り返されているし、その中心に乃木や伊地知がいる。彼らを見つけたとき、もしくは自分が彼らの立場に鳴ってしまったとき、どうすりゃいいんだろう。
実は今関わっている大きな状況そのものが旅順の様相を呈していて結構真剣に考えている。
確かに、乃木と伊地知は無能と言われても仕方がない。彼らには、要塞攻撃の能力はなかった。その上旅順艦を攻撃したいという進軍の目的を忘れて目の前の要塞自体を攻めることを目的としてしまった。そして、何万と言う兵隊をロシアのコンクリート製要塞の前に突撃させ大砲と機関銃の餌食にした。それを何度も繰り返した。
とんでもない失敗だ。
なぜ気がつかないのか
今読んでみて思うのは、そういう勝ち目のない戦を数ヶ月に渡って続けてしまったのはなぜか。ということ。彼らも高級軍人である。この本の中では、彼らが「無能」で「頑固」でありすぎたため、このまずいやり方を変えなかった、とある。が、果たしてそうか。自分達が立てた作戦によって、目の前で15000人が死傷するという、想像を絶する状況におかれたときに、他人の意見を受け入れて状況判断を柔軟にすることができるのだろうか。それまでの戦争での死傷者と言うのは、数百人とか千人とか、そういう規模であり、日本軍にとってコンクリート製の要塞を相手にしたのは、この旅順が最初だった。結果、桁違いの損害が出た。乃木大将などは、大本営や総司令部からの献策や依頼に対していつも呆然とするのみだったとあるが、まさにそれこそ当時の彼らの状況だったのではないか。無能だろうと有能だろうと、自分の許容範囲を超える状況においては、判断能力なんてなくなって何が正しい道かなんてわからなくなるもんじゃないかと思う。
だから第三軍の首脳は悪くない、と言いたいわけではない。彼らは十分に罪深い。彼らにはその職を務める資格がなかったと言えるし、彼らを選んだ大本営の人選ミスもまた罪深い。
ただ、彼らが失敗したのは、その生半可な知識と頑固さのためであった。以上。という総括はあまりに単純すぎるし、学ぶべきところが少ないと思う。人はもっと弱く理屈ではない部分で崩れていくものだと思う。
こういう事例は、実際のビジネスにおいて山のように転がっているように思う。
参考:後で分析するのに使うかも。
前提
- 近代要塞の知識なし
- 10年前の日清戦争ではこの要塞を1日で陥落させている
- 正面攻撃作戦を計画
実行
- 砲弾不足のために計画した砲弾より少ない量で攻撃
- ロシア軍のコンクリート製要塞の前に歯が立たない
- 近づいた歩兵はすべて大砲や機関銃で狙われなすすべなし
- 死傷15000という未曾有の損害
関係者(大本営、総司令部)見解
- 手段(要塞攻撃)が目的化している
- 正面の要塞を落とすことは必ずしも必要ではない
- 本来の目的でないところで大量の損害出している
- 作戦そのものが無謀
- 近代要塞に正面攻撃しても勝ち目はない
- 何度やっても無駄に損害を出すのみ
- 半端な砲術知識を基にした思考停止による作戦
- 司令部が前線から遠すぎるため、正確な状況を把握していない
当事者の見解
- 要塞の強度は認識した
- 作戦そのものは正しい
- 十分な砲火を浴びせた後に歩兵突撃すれば要塞は落ちる
- 砲弾が不足する状態で戦ったので大負けした
- 作戦の成否は砲弾の補給の可否にかかっている
- 戦況の報告は今までどおり軍隊組織の報告系統に沿って司令部まで報告を上げる
- 司令部は砲弾が飛んでこない場所に置いて作戦の純度を高める
救世主 児玉源太郎
この本では、どうにも救いようのない乃木伊地知コンビの元に、救世主として児玉源太郎が馳せ参じてくる。第三軍の情報収集の不備や状況判断のまずさ、官僚主義、戦場にあるまじき責任回避などを痛烈に叱り飛ばす。そして一時的に乃木に命令権を移譲させて、タイミングを計った戦力の一点集中(203高地へ)、というとてもシンプルな解決策を命令し、数日で要地であった203高地を落とす。
この児玉源太郎の痛快で切れ味の鋭い描写は、さすがに司馬遼太郎であって、読むたびに目を洗うような新鮮な気分になる。
ビジネスの現場にも、児玉源太郎が現れる。彼らは確かに存在する。で、どうすれば彼を呼んでこれるのか。もしくは彼を満たす要件とは何だろう。
- 冷静な状況判断
- タイミングを読む力
- シンプルな解決策
この本の中の児玉源太郎から抽出できるキーワードはこの程度だ。これでは浅い。
そもそも児玉の描写が、何もかも一瞬でうまくいったかのような下記ぶりだが(無論半分はフィクションなので仕方ないとしても)、彼が命じたいくつかの命令と言うのは、一つ一つが困難と苦渋を伴うものだ。例えば二十八センチ砲を24時間以内に203高地攻撃用の場所に移動せよ、というものなどは、一体、その命令をどう分解して、どうチームを組成して、どう実施計画を立てたのか、詳しく知りたくなってしまう。その計画を実施するにあたり、幾多の苦労を乗り越えたはずである。この本の描写では、無事に24時間以内に異動と設置が完了して、攻撃に途方もない威力を発揮するのだが、それに至る前に数多の苦難と悲劇が隠れているように思える。児玉はそれを知っていて命じているのか。知っていて知らぬ振りをしたのか。その辺はすっぽりと記述がない。
児玉は一人とは限らない。児玉源太郎となりうる要件を満たしていれば、チームかもしれないし、特定のサブプロジェクトかもしれないし、タスクかもしれない。何を満たせば児玉のように鮮やかに状況を転換し、人々の心を転換できるのだろうか。