その日の前に

この2,3年でもっとも印象深い本。

その日のまえに (文春文庫)

その日のまえに (文春文庫)

思わず泣いた。通勤電車の中で・・・。恐らく子供が生まれる前に読んでいたら、泣きはしなかっただろうし、結婚する前に読んでいたら、普通に読み流していたかもしれない。

これは2人の子供を持つ夫婦が来るべき「その日」に向かって淡々と日々を過ごしていく様子を描いた短編集。その日とは奥さんが亡くなる日のこと。余命を宣告された奥さんとそれを見守る旦那さんが、思い出の場所を訪ねたり、身辺を整理したり、会社の同僚とその日の段取りを取り決めたりする。その中でいろいろな人々と触れ合い、交錯して、影響したり影響を受けたりする。特別な日々ではなく、日常の延長として過ぎていく様がごく自然に描かれている。

ここに描かれている夫婦はしっかりとした精神力を持っているように見えて、自分が同じ状況に置かれてしまうと、とても同じようには振舞えないと思ってしまう。あまりの不条理さに打ちひしがれるだろうし、現実を受け入れきれずにとまどうだろうし、怒りや悲しみに支配されてしまいそうだ。

一方で、救いようのない怒りや悲しみに身を任せられる時間と言うのは案外長くは続かなくて、その状態の中で気持ちを均衡させて、日常の延長として生きる事の方が気持ちが楽になるのかもしれないとも思う。この二人も、うろたえて悲しみの淵をさまよった末に、気持ちのバランスを保つやり方を身に着けたのかもしれない。「どうなるかわからないという不安な状態に比べれば、余命を宣告された後の方が、悲しみの対象がはっきりとわかって楽だった」みたいな事が書いてあった。わかりたくないけど、何となくわかる気がする。

この夫婦には二人の子供がいる。父はぎりぎりまで母親の容態が絶望的だということを、子供達に語らなかった。父に本当のことを告げられたとき、上の子はなんとなく前から勘付いていたが、下の子は本当に何もわかっていなかった。

このシーンには、個人的な特別な感情が蘇る。僕は中学2年の時に父親を病気で亡くしているけど、亡くなる前の1年ほどの入院期間の間、痩せ細る父を見てもまったく死を意識することはなかった。父の容態について人から訪ねられた時も、にこにこと明るく答えていた。周りの親戚はその様子を見て「ああ、この子は何も知らないのだ。」と密かに哀れんでくれていたと言う。ある夜、兄弟全員が病院に呼ばれた時には、もう父の意識はほとんどなかった。僕は父の死の直前まで本当に何もわかっていなかった。そのことを少なくとも僕は後悔している。

子供と言うのはそういうものだ。気づいた時には親がいなかった、という時の後悔はとてつもなく大きい。小さな子供を残してこの世を去る親というのは、それほど残酷で許されないことだ。僕は自分の子供達に同じ理由で後悔させたくはない。

そういう気持ちがあふれ出して、通勤電車で恥も外聞もなくおいおいと泣いてしまった。同時に少しでも早く人間ドックを受診しよう、と心に決めた。