ブルックナー五番

久々に聞いてみた。これも会社に入った当時か。当時は朝比奈旋風と神様ヴァントの時代だった。ブルックナー:交響曲第5番

ブルックナー:交響曲第5番

同時代人としてこの二人の演奏を生で聞けたことを誇りに思う。グールドの演奏を聴けた人と同じくらいに誇らしいことだ。

それにしてもこの曲、限度を超えている。レコードやCDに記録される時代になってからの演奏家はかわいそうだ。第4楽章の最後のコーダなんてまともに吹けてる演奏にそうは出会えない。

が、この曲の最後はいい。長いシンフォニーの最後を飾るべく、朝もやの中から天を圧するほどのゴシック様式の建造物だか、知恩院の山門だかの、とにかく想像を絶する巨大な建物がそびえて来る。「そうか今までこれを積み上げて作っていたのだ。」と最後に邂逅する。

その運命の場面を金管楽器の洪水のような音の重なりで表現している。この人は教会で長い時間を過ごした。聖歌隊のコラールといえば金管楽器だ。タダでさえ、ブルックナーのシンフォニーでは金管楽器の出番が多い。馬車馬のようにあらゆる場面で咆えを要求される。さすがにドイツのビール腹のラッパ吹きも終わりの頃にはくちびるもぐにゃぐにゃになるというもの。ライブだと雰囲気に気圧されて結果オーライなんだけど、CDだと何回でも冷静に聞かれてしまうわけで。「ここでバストロが2回はずすぞ」とかいらぬ突込みが入ってしまう。それほどの大曲って事。



ブルックナーという人、教会のオルガン奏者だっただけに規律正しい。75分もの音楽のほとんどが、規則と反復とお約束に基づく進行。お得意のブルックナー終止と時折見えるワーグナーのような新しい時代の響き。しかし。最後のコラールを高々と歌い上げ(咆哮して)る時、ああ、すべての音はこの結末のためのものだったのデスネ。生きていて良かった。アーメン。と結論付ける。この人の音楽は最後の一節を聞くためにある。と思う。
長いこと報われない状態が続いて「なんだか同じ事を繰り返しているだけのような・・・」という気分の時には、この人の曲を聞きたくなったりもする。「今積み上げてるのは、この城門を作るためだったのか」と気づく。

一番印象深いのは九番だ。4楽章はない。GunterWand。タケミツメモリアルホールでのこの人との出会いは、ちょっと言葉にできないものがあった。が、それはまた今度。