竹中平蔵

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060915-00000051-jij-pol

一つの時代が終わったということだろう。僕はこの人に憧れて大学に入ったし、今でもこの人ほどの人物は他になしと思っている。が、何か世間の評価は違うらしい。

なんでネガティブなのよ

役人に嫌われ続けた 竹中総務相の5年5カ月 : J-CASTニュース

辞めた日にこんな記事が書かれるくらい彼は不人気だった。確かに彼を嫌う人の声は良く聞くけど、彼をほめたり持ち上げたりする人はとても少ない。ただ、彼がやったことというのは、すごく価値の高い仕事だったと思っている。10年低迷し続けた日本経済(特に金融部分)を上向かせている。たまたま景気循環の波がはまった、ということもある。が、それだけでは説明がつかない。彼の前にも何人もの人々が経済の建て直しをチャレンジしたが、誰一人として成し遂げることはできなかった。景気の循環で言うと彼の前にも上向くチャンスはあったのだ。

彼のすごいところは、経済の不振の輪廻の元を断ったということ。金融機関が回収できない債権への引当を積増す必要に迫られて資本不足に陥る→金が回らないので物価が下がる→資産価値が目減りしてさらなる引き当てが必要になる。という縮小均衡に陥っていた日本の金融システムにとって、原因の「元」は回収できない債権(負のストック)と再建できない大企業(負のフロー)にあるとの認識に立って、その2点を徹底的に解消しようとした。

そのために必要な障害はどんどんぶち壊した。たっぷりと国の金を銀行に注ぎ込んだり、国有化したり、統合を促したり、国が債権を買い取ったりした。危険水準にあった41社の企業を産業再生機構で引き受けた。なりふり構わずにやった。だからこそできた。

古くは梶山静六さんも柳沢さんも「何をすべきか」はわかっていた。だけど彼らはできなかった。竹中さんだって、やったことの方向性としては、別に目新しくもないし、どちらかというと当たり前のことが多かった。しかし「何をすべきか」がわかるということと、「それをやりぬく」というのは何倍もの差がある。竹中さんの今の不人気ぶりは「やりぬく」ことの難しさを表してるようだ。

ちゃんと評価しよう

例えるならば、彼の存在はアメリカにおけるグリーンスパンくらいの大きさと言えるのではないか、と個人的に思っている。グリーンスパンは、その去り際で日本においても別れを惜しむ声が天下に響いていた。しかし自分の国の功労者の別れに際しては、「かんどり忍が繰り上げ当選・・・」とかいう雑音にかき消されて、その足取りを振り返る声さえ聞こえてこない。

やりぬくというのは、たくさんの人を敵に回すと言うことだ。敵に回った側の人々がホッとするのは本音だとしても、たくさんの人を敵に回さざるを得なかった本人の苦しさは想像に余りある。だからせめて、その役目を終えたときくらい、きちんとその人の実績に対して敬意を表してほめてあげないとあんまりじゃないかと思う。

「やりぬく」ことのインセンティブ

僕は今年で30歳だけど、日本という国が何十年とか百年とかいうスパンでの国の転機に出くわした世代だと思う。そういう転換点に僕らはいる。これから先僕らが直面する事柄はこの種の「やりぬく力」を必要とされる種類のものが多いと思う。

「やりぬく力」とは容易に得がたい。「何をすべきかの力」が頭で考えて口先で言うだけだとしたら、「やりぬく力」というのは、体を動かして、既得権益とか、既成のルールという壁にぶつかって、地べたに這いつくばるような能力、そんな状況に陥っても「何をすべきか」を忘れずにいる能力だと思う。これはつらい。つらいことだから、それを成し遂げた暁にはちゃんとしたインセンティブを与える仕組みが必要。

たとえ途中で憎まれたとしても、うまくいけばきちんと賛辞を浴びることができる。社会に正当に評価されるのだ。というのも十分インセンティブとして機能すると思う。

そんな世の中になって欲しいと思うので、まず第一歩としてこうして地道にエールを送ろうと思う。