カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

「読みやすい新訳が出た」と評判だったので読んでみた。(全5冊)
9月半ばに1巻を手にしてから、約2ヵ月。なんとかエピローグまで読んだ。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

普段ゆるい本しか読んでいない。そもそも古典なんて読んだことない。その上洋モノだ。
見るからに自分にはハードルが高そうだった。

結果やっぱりハードルは高かった。
本というのは水道のようなもので、本を入手して読みさえすれば、蛇口から水は出てくる。
が、それを受け止めるスポンジなり海綿体なり、もしくはザルでもいいけど、そういう受け皿がないと、蛇口から出た水はそのまま自分を通り抜けて、漆黒の排水溝の穴の中に吸い込まれていくということがわかった。

心の中では、どこかでこの本に邂逅する瞬間がくるのではないか、と密かに期待するところがあったんだけど、そう簡単にはその瞬間は訪れなかった。受け皿のないところに水はとどまらない。苦行とわかりつつ進んだ道はやっぱり苦行でしかなかった。

特に読んでて辛かったのは三つ。

  • あまりにもったいぶったレトリック(山崎豊子の小説の10倍くらい回りくどい)
  • 登場人物の精神状態が、ほぼすべて錯乱状態か自己陶酔していること
  • 神とか悪魔とか大審問官とかイエズス会士とか

もともとキリスト教の素地というか前提知識がぜんぜんないので、全体を通してかなり苦痛だった。
父殺しとかエディプスコンプレックスとか言われても、こちらもまったくピンと来ない。

あと、出てくるのがみんな貴族の人々なので、誰も働いていない。いい大人が働きもせず、寄ってたかって平日の昼間からどうでもいいことに頭を悩ます姿になんかとても違和感を感じた。「働かずして富を得る」というのは、万人の憧れだけど「働かずして富を得る」立場になるというのは、その実恐ろしいことなのかもしれない。

ミーチャは結局300万ほどの借金を思い悩んで、金策に奔走したり、そのことを恥辱に思ったりして、自分をどんどん追い詰めていく。そんな姿を見ていると「普通に働いて金返せば?」とか思ってしまう。

当時の時代背景と彼らの立場からしてそういった発想は浮かばないのだろう、というのはわかるけど、つい自分の常識を当てはめてしらけてしまうことが多かった。

受け皿なきところに水とどまらず、ということ。

それでも、砂を噛むような思いで読む進んだ前半に比べて、ストーリーの見晴らしがよくなる後半は一気に読めた感じ。結局、訳者が解題で触れている三層構造の一番下の層しか、それもその一端しかつかめなかったということらしい。

ドフトエフスキーは生涯で数度読み返すべき名作だ、といわれているけど、その機会が来るかどうかは微妙。
少なくとも自分から読み返したくなることはなさそうに思う。

この小説と比べたら、山崎豊子のもったいぶった文体や村上春樹海辺のカフカに登場するカラスのような、今まで読みにくいなあ、とか思っていた要素が、ひどくかわいげのあるもののように思えて来るから不思議だ。