羽交い

子供と言うのは可憐だなと思う。うちの娘は一人になることをとても嫌がる。特に夜になるとそれが顕著で、すやすや眠ったかなと思っても、抱っこからベッドに寝せた瞬間に泣き出す。正確に言うとおしりがベッドに着地した瞬間に泣き出す。(俗におしりセンサーと呼ばれる)。何とかダマシダマシで、ベッドに寝せたとしても、そばを離れたとたんに泣き出す。よしんば離れられたとしても寝室から外に出ようとドアを開けた時点で泣き出す。とにかくいつもそばにいて欲しいのだ。

それも、そばにいれば誰でも良いわけではない。眠っている間に泣き出したときに、あやしに来た相手がママならOKなんだけど、パパだとわかった場合、烈火のごとく抗議の雄たけびを上げる。ママは1軍でパパは2軍、という扱い。なぜ自分の相手が2軍なんだと。店長呼んで来い、と。彼女は常にママからの最高のサービスを享受することを望んでいる。もっとも、パパが来てしばらくは絶叫を続けるんだけど、それに疲れると「今日のところはパパでも許してやろう」とばかりにコテンともたれかかってきて、したたかに眠ってくれる。

去年娘が生まれて以来、「子育てってこんなにシンドかったのか・・」という思いを、日々新たにしている今日この頃。特にうちのお嬢ちゃんは寝つきが悪いのかもしれないけど、程度の差こそあれ、どこの家も似たようなものだと思う。

が、それって子供の本能なんだと思う。赤ん坊は一人では生きられない。一人にされると言うのは自分の生命の維持に関わる危機である、ということを本能で感じているんだと思う。1歳になって、昼間は多少の理性によって自分を律しているんだけど、夜になって自分の意識と意識外の境目があいまいになってくると、自分を防衛する本能が前面に現れて、一人になると泣く、自分はここにいるんだ、早く助けに来てくれ、と泣く。ママじゃなくてパパが来たら泣く。という行動になっているんだと思う。そう、決してパパが嫌われているわけではなく。

昼間はすっかり忘れている自分の本能が、眠りにつく頃にはむくむくと前に出てきて、生きるために泣く、という姿はなんとも可憐ではないか。そうして今日も娘はパパかママの腕の中で抱きしめられることで、誰かに守られる安心を味わう。やがて、その安心がずっと続くものであり、もう心配する必要がないとわかったころに、ようやく眠りについていく。

彼女は今、親の羽交いの中で育つことを求めている。これが子供の勝手な都合というものだ。

一方の親はと言うと、洗濯しなきゃとか、ご飯の用意とか、本を読みたいとか、ネットを見たいとか、いろんなおとなの都合がある。なので、腕の中でなかなか寝付かないちびちゃんを見て、「もういい加減開放してくれんかね」とか「別にどこにも逃げやしないから、そばにいなくても安心していいのにね」とかいうのを、本気で願ってしまう。これは、主に「自分の自由になる(はずの)時間」を子供の都合で制約されるなんて許せない、という不満が根底にあるんだと思う。我ながら勝手なものだ。

これが、子供が長じるにしたがって、立場が逆転するんだろうな、と思うとなんとも複雑な気分になる。

親としては、いつまでも子供を自分の目の届くところに置いておきたくて、できるだけ羽交いの中に収めようとする。一方、子供としては、いつまでも赤子じゃないんだから、好きにさせてくれよ、となる。まるで立場が逆転する。このギャップゆえに悲喜こもごものドラマが巻き送るんだろうけど、親が子供を羽交い絞めにして守ろうと思うのは、きっと親の本能だろうし、子供が好き勝手にしたいと思うのは「自分の自由になる(はずの)時間」を親の都合で制約されるなんて許せない、という不満なのだと思う。

子供が羽交い絞めを望んでいるときに親はそれを望まず、子供が自由を望んでいるときに親が羽交い絞めを望む。逆も同じ。お互いがうまくやれる要素を持っているのに、それが見事にアンマッチしている。これが子育ての難しさなのかなと思うし、またそれこそが醍醐味なのかもしれない。と思って、今日も理不尽な絶叫に耐えて娘を眠りの世界にいざなった。