華麗なる一族

華麗なる一族(下) (新潮文庫)

華麗なる一族(下) (新潮文庫)

読み終えた。かなり読みづらかったけどパワフルな力作。最後の方は、なぜか万表大介に同情してしまった。三雲頭取にも。というか、何があっても銀行の頭取なんてご免だなと思った。まあ、心配する必要もないけど。

今は薄れているとはいえ、権謀術数の中で、食う側も食われる側もとんでもない犠牲を払って、その後に何が残るのだろうか、とか妙に感傷的になってしまった。そんなのは銀行に限らずどこの業界でも似たようなものなのかもしれない。日本で偉くなるというのは、雪隠詰めみたいな状況に追い込まれていくことのように思える。そんな世の中は誰しもいやだ、自分が大人になる頃には、日本ももっとオープンで実力でぶつかり合える時代が来るに違いない、と思っていたころがあった。少なくとも学生の頃とか、会社に入って何年かはそう信じていた。だけど、最近仕事で会うことがあるちょっと偉げな層の人だとか、そういう層のリレーションで決まっていくビジネスの実情とかを見ていると、山崎豊子が怒りをぶつけた昭和40年代的な世の中と何ら代わりがないんじゃないかと思ってしまう。

僕らは前に進んでいると思っていたのに、内面はちっとも変わっていなかったのかもしれない。大手銀行が20行あった時代から、4グループに集約されてしまい、いまや合併はM&Aと名を変えて、ファイナンスとマーケットの力学であさっりと決まっているように思える。ただ、一歩その会社社会の中に入ると、未だにだれだれ派閥だとか、どこどこ学閥だとか、うちの息子の就職先をよろしくとか、そういう力でビジネスが決まっている例を実際に目にする。地銀の大半はお上から天下った役人や日銀役員という流れも残っている。あまりの前時代的感覚になんともやるせなくなってしまう。さすがに政略結婚なんていうのは聞かないけど。

金融業界では検査の厳格さや関連規制は今後ますます厳しくなる一方で、それにどう対応するか、というあたりが、経営課題の大きな要素だったりもする。むしろ外部環境としては、この小説の時代よりも政官財の結びつきを強くしたくなる要素は増えているのかもしれない。もちろん、不正な結びつきを摘発したり禁止したりするしくみは整っているので、この小説のようなあからさまな利権の飛び交いはないんだろうけど、ビジネスの本流でない方面の力は陰に陽に今も息づいているように感じる。

悔しいのは、これが世代交代によってなくなるのかどうかが良くわからないこと。そもそも今の経営者層だって、戦後に生まれて安保闘争で血まみれになった世代であったはずで、周りに流されず意思を通す気概を持った人たちであったはずで、決して頭の凝り固まった人々ではなかったはず。それなのに、昔のムラ社会的な慣行が今も脈々と生き残っていると言うことは、僕らの世代が会社をリードするようになっても、実態はさして変わらないんじゃないかと不安になる。そんな将来はいやだ。

例えば自分があと20年経って、阪神銀行や大同銀行の幹部みたいな立場になったとして、彼らと同じように自分の意思で身動きがとれずに雪隠詰めにされて彼らと同じような行動を強いられるなんて想像したくない。

そんな世の中にしないように、少なくとも普段の仕事で気づかぬうちにその片棒をかつぐようなことがないように、肝に銘じておこうと思った。