街道をゆく

今週はなんか疲れた。後半が忙しかった。。というか焦りに追われた感じ。

街道をゆくシリーズを読んでいる。今9巻。長い。
が、急がずじっくり読むのがいい。

この回は、たまたまではあるけど紀州九度山と信州上田という真田昌幸・幸村の縁の地を訪れている。今更ながら昌幸の腹の座り方にほれぼれする。で、この旅に出かけた先の信州のそば屋で田中角栄が逮捕された、というニュースに出くわした、とある。

昭和51年だ。僕の生まれた年。ロッキード事件に明け暮れた暗く淀んだ年だったと聞いている。

司馬遼太郎が日本中を歩いてたころから30年。まだ30年か、という気もする。それほどに今僕らが目にする風景とは違う風景がこの本には広がっている。

そのころ赤ん坊だった人間にこの紀行文を読まれることを想像していたかどうかしらないけど、司馬遼太郎歴史小説とは一味違った形で、彼の生な歴史観みたいなものが伝わってきて面白い。何より、過去を神聖化せずに見つめているところがすごい。

新しい道路ができたことによって、古い街道沿いの町が寂れていく。平安時代あたりに、木曽路という京へ上る新しい道が開かれた。それによって信州の中心地が上田から松本に移っていった。これって、今でも日常的に起きている事と同じだね、と司馬遼太郎は言っている。最近は道だけではなく、線路だったり、ショッピングセンターだったりするけど、根本は同じだと。

過去何百年と続いてきた慣習を守った昔の人は善で、便利さを追求したり易きに流れる今の生き方は悪だ、と決め付けちゃいかんよ、と聞こえる。昔の人だって、同じように便利な世の中を目指したんだよ、と。

同じように宗教だって、公家だって、武家だって、大抵世の中の移り変わりは大義名分じゃなくて利害で動いてきたんだよね、というのを、あたかも僕らと同じ目線で語ってくれるので、なんかすごく救われる気がする。救われる気分というのはちょっと危険か。安心するという感じ。

巻末の解説が説教臭くて本文とあまりにギャップがあるのが気に食わないが、ぜひ全巻読んでみたいシリーズ。

ブログで言うとfinalventじいさんの存在というのは、僕の中では司馬遼太郎と通じるところがある。人生の酸いも甘いも知ったうえで、抑制の効いたエントリを提供してくれる。例えば今の赤ん坊が30年後に極東ブログとか見ると感銘受けると思うな。こういう人の文章を毎日読めるというのは、ネット以前の時代にはなかっただろうから、そういう意味では幸せなのかもしれない。

finalventじいさんの「街道をゆく」なんて読んでみたい気がするな。まあ、まだそんな年でもないのかも。いや、あのじいさんは世の中の街道の風景を語ってくれてるのかも。